【50周年】シビックの「もうひとつのふるさと」、西海岸に滞在していたフォトグラファーが北米でのシビック人気を語る
ホンダが初代シビックを発売したのは1972年のこと。コンパクトなボディサイズながら広大な車内空間を備え、さらに優れた運動性を誇ったシビックは日本国内だけでなく海外へも輸出が行われた。なかでも人気を集めたのは自動車大国アメリカで、初代シビックの大ヒット以来、長年に渡って販売が継続されている。北米市場のユーザーにとって、現地工場により生産されるシビックは輸入車ではなく、もはや”国産車”と呼べるほどの人気や高い支持を集めているのだ。
そんな「北米市場におけるシビック」を、大きな愛情とともに所有していたのがレーシング・フォトグラファーの斎藤和記氏。かつて生活の拠点を北米に置き、シビックとともに多くの年月を過ごした斎藤氏が、北米市場におけるシビックの人気を自身の想い出とともに紹介する。
(ホンダスタイル シビック50周年記念号に掲載)
30年前にアメリカで初めて購入したワンダーシビック
僕が意を決してアメリカに移住したのが1992年だから、ちょうど30年前のことになる。当時の愛車だったシビックSiRⅡを売って資金を捻出し、渡米してロサンゼルスで最初に買ったのは、2世代前のワンダーシビックだった。せっかくアメリカに来たんだから、もっとそれらしいクルマにすればよかったかもしれないが、数か月前にロサンゼルス暴動があったばかり。妻が一人で乗ることもあるだけに、できるだけ壊れないクルマを選ぶ理由があった。
人生で初めての左ハンドルで、さらに5速MT車だったがロサンゼルスは道が広くて走りやすく、妻もすぐに慣れてくれた。赤と銀のツートーンカラーで、カリフォルニアの強烈な日差しのせいかだいぶ色褪せてはいたのだけど、日本の相場よりもだいぶ高かったのを覚えている。
ロサンゼルスに住み始めて驚いたのは、とにかくホンダ車が多いということ。日本と異なるのは、年代がまんべんなく様々なモデルが現役で走っていたことだ。車検制度がないせいか、ぶつけてダメージを負ってもそれほど気にならないらしく、修理しないまま走っている個体も多い。なぜこれほどまで人気があるのか、不思議でならなかった。
自動車が無ければ生活が成り立たないのがカリフォルニアで、信頼性やリーズナブルな維持費により、ホンダのクルマはリセールバリューに優れていた。売却する時の価格がそれほど下がらないという点は圧倒的に支持され、特に高学歴の層に受け入れられていたという。恐ろしいほど値落ちしてしまう日本とは、まるで違った。
何しろアコードが売れに売れていた頃で、’89年から3年連続で乗用車部門のセールス1位を記録したばかり。もちろん、日系メーカーとしては初めての快挙であり、すごい時代になったと思った。アメリカではホンダがトヨタよりも売れているなんて、なんだか嬉しかったなぁ。
その下のクラスにあたるシビックはアコードの次に売れていて、ある時ホンダのディーラーにいたら、アコードに乗った夫婦が奥さん用にシビックを買いに来て、そのまま奥さんが乗って帰るシーンに出くわした。
ロサンゼルスでは本物のナンバーが自宅に届くまで、テンポラリー・ナンバーで乗ることができる。ディーラーで気に入ったらクレジット・カードかチェックで支払って、すぐにテイクアウトOKだ。
1952年のホンダの社内報によると「世界一であって初めて日本一となり得るのであります」と、創業者である本田宗一郎氏はぶち上げていたそうだ。日本では後発メーカーだったが、副社長の藤澤武夫さんは広大なアメリカを重要なマーケットと判断して’59年にアメリカン・ホンダを設立。もちろん最初はオートバイだったけど、需要のある所で生産するという思想を大切にし、’78年には日本メーカーとして初めてオハイオに工場を作った。
40年前の’82年からアコードを現地生産し、やがてカナダやメキシコにも工場を建て、シビックもバンバン作った。アコードが一番になった’90年代初頭、日本での総生産台数が約65万台前後という時に、アメリカでは80 万台近くを販売し、その約3分の2がアコードとシビックだったのだ。
ちなみに、アメリカン・ホンダがインディカー・シリーズ参戦を決めたのはその時期で、数か月前に当時の社長だった雨宮高一さんにお会いする機会があり、とても興味深い話を聞くことができた。『お世話になったアメリカに恩返しがしたかった』と雨宮さんは語り、『利益を地元に還元することも目的でした』と教えてくれた。
決してレースで勝つことばかりを考えていたわけではなく、『アメリカン・レーシングを支えたかったんです』ということ。当時はCARTとIRLに分裂して混乱していた時期だったが、’94年の初参戦から28年間も参戦を継続しているのはそのためだった。
ツインリンクもてぎ(現・モビリティリゾートもてぎ)の建設や、’98年からのインディジャパン開催も、アメリカのサポートがあったからこそ。もしインディジャパンがなければ、佐藤琢磨選手がF1の次にインディカーを目指す可能性は低かったかもしれない。
伝統のインディ500で2度も日本人ドライバーが勝利を飾る姿を見られたのは、まさにアメリカでホンダが売れまくっていたから実現したとも言える。
2022年にシビックは50周年を迎えたが、前年にあたる’21年のアメリカン・ホンダは、アキュラも含めた総販売台数で年間146万6630台を記録した。そのうちアコードは20万2676台、対してシビックは26万3787台と、約6万台以上も多く売れる時代になっている。
しかしそれよりも約10万台以上売れているのがCR-Vで、かつてアコードがナンバーワンだった頃と同じぐらいの36万1271台を販売している。
SUVが一番売れる時代ではあるものの、2番目のシビックは今もホンダを支える重要なモデルであるのは間違いない。それだけにアメリカの声が大きくなるのは仕方がないことで、これからも現地を最優先とする開発が進むのだろう。どんどん売れて、将来もアメリカのレース界を支えて欲しいものだ。
大きく高級になったシビック。もう少し若者が手の届きやすいモデルがあれば
僕自身の話に戻ると、’97年に妻は子育てのため日本へ帰国してシビックフェリオを購入した。その後、7代目セダンのハイブリッドに乗り換えた。歴代シビックのコンパクトさが気に入っていたのだが、アメリカ市場に合わせたボディサイズが日本では持て余すようになり、その後はフィットRSを購入した。
本稿を執筆している2022年秋現在は、僕も日本へ帰国している。しかしアメリカに住み続けていたら、ベースモデルが2万2550〜という現行シビックは、愛車候補の筆頭になるだろう。さらに希望をいうと、若者でも手を出しやすい2万ドル以下の、初期のDXのようなシンプルなモデルがあってもいいのではと思う。
今回はアメリカにおけるシビックの50年を振り返ることになり、日本生まれのシビックが長い時間を経てアメリカで受け入れられ、現地にしっかりと根付いていることをあらためて認識した。
ハッチバックが無くなった時は残念だったが、こうして現在は復活し、むしろアメリカならではと思っていたクーペが姿を消すなんて、誰が想像できただろう。時代の変化にしっかりと順応しているからこそ、生き延びているということでもある。
シビックの存在なくしてホンダのアメリカにおける成功は有り得なかったわけで、その功績は今後も語り継がれていくだろう。それほどアメリカにおける「シビック」、そしてホンダのファンは大勢いるのである。
(text:Kazuki SAITO 斎藤和記/ US RACING)